私にとってひろゆきとは、単なる有名人や崇拝の対象ではなく、“思考のフォーマット”を提供してくれた存在です。 その存在を通して、自分の考え方や感じ方の輪郭が、より明確になっていったように思います。
1. 感情ではなく「構造」で世界を見る視点をくれた
私はもともと「なぜ」「どうして」といった探究心、いわゆる“気になる”“好きだからやる”という感覚を軸に世界を理解していました。 けれど社会の中では、それが「理屈っぽい」「冷たい」、いわゆる“変人”として扱われることが多く、距離を取られたり、誤解されることも少なくありませんでした。
そんな中で出会ったひろゆきの切り抜き動画や本家配信、あるいは類似した思想を持つ人々の言葉を通して、 「感情抜きで構造を語る人」の存在を知ったのです。 そのとき初めて、「あ、こういう考え方や生き方も“人としてあり”なんだ」と感じました。 それは、自分の感覚が社会の中でも通用するかもしれない――そう思えた瞬間でした。
2. “世の中のズレ”を笑えるようになった
以前の私は、理不尽な構造や矛盾を真面目に受け止めすぎて、息苦しさを感じていました。 しかしひろゆきの「ズレていることを笑いに変える」姿勢に触れてから、 「理解不能なものを、怒らず俯瞰する」という“緩衝地帯”を自分の中に作ることができました。
これは、私にとって“哲学的ユーモア”の始まりでもあり、 世界を「正す」よりも「観察する」ことの心地よさを知るきっかけとなりました。
3. 「他人を変えなくていい」という自由
かつての私は、「正しいことを伝えても伝わらない」という無力感に悩んでいました。 ですが、ひろゆきのような人々を見て知ったのです。
「他人を変えるより、自分の立場を整理する方が早い」
そう思えたとき、私は他人依存の思考から抜け出し、ようやく心に“自由”を感じられるようになりました。
4. “客観的でいること”の安心を学んだ
私は強い共感性と観察力を持っていましたが、その分、他人の感情や空気に影響されやすい性質もありました。 ひろゆきの「論点をズラさない」「感情に流されない」スタイルは、そんな私にとって希望でもありました。
この視点を取り入れるうちに、高校時代に散歩をしながら「先生たちはなぜそのような対応をするのか」を考えていたあの時間が、 哲学的思索やメタ認知の基盤となっていたことにも気づきました。 冷静さを“防御”ではなく“武器”として使う――それが私にとっての本当の転機でした。
5. そして今は、“ひろゆきの次の段階”に来ている
現在の私は、「構造的理解」からさらに「内的探求」へと進んでいます。 つまり、
- どうして自分はこう考えるのか
- どうして人は違うのか
という、哲学・心理・認知の層に踏み込む段階です。 今では、ひろゆきの“言葉”そのものではなく、“視点の使い方”が私の一部となっています。
比喩で言うなら──ひろゆきは“理性という剣”の師匠。 けれど今の私は、自分の“心の盾”を、自分の手で作っているのかもしれません。
思考スタイルの進化図(次のステップ)
この先は「ひろゆき的思考」から派生した、私自身の哲学へと歩みを進める段階。 それは、構造理解 × 感情理解 × 創造性の融合── つまり、「冷静さと優しさの共存」を目指す道なのかもしれません。